50歳から始めた初めてのバックパッカー。世界一周の旅の最初の訪問国、スリランカでの日々。すべてが新鮮で素敵な体験だった。
今回は、スリランカ内陸部山岳地帯の街エッラから、南海岸の街タンガッラへの旅路について。
エッラの次は、海辺の街タンガッラへ行こう
エッラでの最終日は、一泊だけ別の宿に泊まった。
このときは、外国の宿が物珍しくて、いろんな宿を体験してみたかったのだ。
Will Guest Homestayというところで、木の温もりとテラスから見える山々の眺望が素敵な宿だった。道路が近いので車の音が聴こえてしまうのが玉に瑕か。
夕食は、中心街にあるお気に入りの店でスリランカ・カレーを食べた。宿からは距離があったが、親切にも、宿のオーナーが車で送ってくれた。
スリランカ・カレーは、美味しくて、毎日食べても飽きなかった。味が比較的マイルドで、変化に富んでいた。
そのとき僕は、まだ次の行き先を決めていなかった。
内陸部をもう少し探索するのもいいし、南西部の国立公園へ行ってもいいが、海にも行きたい。
宿のオーナーに相談して、結局、タンガッラという南海岸の街へ行くことにした。
山を堪能したあとだったので、今度はビーチリゾートっぽいところでのんびりしてみたかった。旅でイメージする憧れの一つだからね。
一つ、後で後悔したことがあった。
せっかく宿のオーナーから夜のパーティーに誘われたのに遠慮してしまったのだ。
行かない理由を探せばいろいろあるが、本当のところは単純に気後れしたのだと思う。
「オーナーの知人ばかりの集まりに入ったって、居場所がないんじゃないか」「シンハラ語は全くわからないし、英語だって片言レベルだから、うまく会話できないんじゃないか」。そんなことを心配して遠慮してしまった。
今なら参加したと思う。うまく話せなくてもコミュニケーションは取れるし、十分楽しめるということを、その後の旅の経験で知ったから。でも、その時は、まだ知らなかった。
そもそも、「うまく行かなくたっていい、全てはいい経験なんだ」ということも、その後の旅で実感した。が、その時はまだわからなかった。
その日の夜、パーティーに行く代わりに宿で本を読んだ。
友達から勧められた「パスワーク」という本だ。旅の序盤、毎日のように読み進めていた。
その日読んだ部分のテーマは「愛と性」。「性愛の部分を開示し合うことで愛が進化し続ける。それをできるのが真のパートナー。開示し合うことがなければ、エロスはいずれ枯れる」というような内容だったと思う。性愛を汚らわしいものとする宗教や道徳は、愛を歪める。「性をタブー視するのはおかしいよね」と思っていたので、共感するところが多かった。
初めてのローカルバスに乗ってタンガッラへ
エッラからタンガッラへの交通手段は、ローカルバス。約4時間のバスの旅だ。
どのバスに乗ればいいか、情報が見当たらなかったので、宿のオーナーに教えてもらい、ついでにバス停まで車で送ってもらった。
何から何まで、親切にしてもらったものだ。
慣れない海外一人旅では、小さな子供のように無力な存在になる。その分、周りの人に助けられる経験をたくさんすることができた。この経験は、なんでも自分の力で解決しようとして、人に助けを求めるのが苦手だった僕への、最高のギフトだった。
バス停に立ってしばらく待っていると、やがてバスが来た。いかにも田舎のローカルバスといった風のオンボロバスだった。出入口の扉は壊れているのか、開きっぱなしだ。
最前列通路側の席が空いていたので、そこに座った。座れたのは良いが、肘掛けがなかった。なので体を支えるのが難しい。なのにとても揺れる。だから結構疲れた。しばらくして、後ろの席が空いたので、後ろの窓側に移動した。おかげで通路に転げ落ちそうになる問題は解消した。
「ローカルバスは汚いし、危険だ」。スリランカで最初に泊まった宿のオーナーはそう言った。しかし、実際に乗ってみると、確かにオンボロではあるが、乗って移動するのに不都合はない。危険を感じることもなかった。女性や子供を含めた地元の人たちが、日常の足として普通に利用しているバスだ。そんなにしょっちゅう危険なことが生じるわけではないだろう。
「バスは汚くて危険だ」という言葉は、ことさら不安を煽るためのもの。不安を煽っておいて、安心安全を売りにするツアーに誘導するためのもの。そのことがよりはっきりとわかってきた。こう書くと、そのオーナーが悪い人だと言っているみたいに思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。これは、人の気持ちをコントロールする、ごくありきたりのパターン。わかりやすくは、製薬会社とか、多くの企業、権力者がやっている。みんながやっているからそれでいいというつもりはない。ただ、「気をつけないとね」と思う。
さて、僕はタンガッラで降りなければいけない。が、日本のバスのような電光掲示板があるわけではないし、車内アナウンスがあるわけでもない。もちろん、周りの景色を見てもわからない。
なので、ときどきスマホの地図アプリを開いて自分の現在位置を確認し、ここだ、という場所で降車した。降りるときは、周りの乗客に、「タンガッラ?」と尋ねて確認した。みんな親切に教えてくれた。
ちなみに、地図アプリで足りないときは、最初から運転手と周りの乗客に、自分がどこで降りたいのか伝えて、「着いたら教えてね」と頼んでおく。そうすれば、みんな、これでもかというくらい親切に教えてくれる。
こういったやり方は、その後何度も活用し、周りの人たちに助けられた。そういう一つ一つの出来事自体が、嬉しい体験、旅の喜びだった。自分の力だけでやり遂げる達成感もいいが、人に助けられる喜びもいいものだ。人を助ける立場になれば分かるとおり、助けることも喜びだから、結局、みんなハッピーになる。
余談だが、海外では駅や車内でのアナウンスが少ない。それに慣れて帰国すると、日本のアナウンスがうるさくて仕方がなかった。あれは一種の音の暴力だと思う。
耳に入る音、目に入る情景や光、匂い、体を包む空気など、五感に入るあらゆる情報が、その場にいる人を刺激し、気分を良くも悪くもさせる。音や光などは、人の快適さや幸福度を左右するとても大切な要素なのだ。
タンガッラでの出来事については、また次の記事で。
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