世界一周一人旅の最初の訪問国、スリランカ。出だしのツアーから解放されて本当の一人旅になり、最初に訪れたのがスリランカ山間部の小さな街、エッラ。そこで初めての旅の道連れができた。
スクーターに乗ってリトル・アダムス・ピークへ朝日を見に行く
エッラの小さな宿に泊まっていたのは、僕ともう一人、アメリカ人のクリスだった。彼は多分30代で、アメリカ東部の銀行に勤めていた。ハードワークと節約でお金を貯め、15ヶ月のバケーションを取って旅に出ているという。この後インドへ行ってヨガの修行をするそうだ。
気さくで、一緒にいても疲れないタイプだったし、僕の拙い英会話にも嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた。で、彼から、「明日の朝、リトル・アダムス・ピークっていう山の上に日の出を見に行くんだけど、一緒に行かないか?俺が借りてるスクーターに乗せてやるよ」と誘われた。僕は「ちょうどいい。何も予定を決めていなかったから、行くよ」と即答。
その日は早めに寝て、翌朝5時に起きて、待ち合わせ時間の少し前から宿のロビーでクリスが来るのを待った。約束の時間よりかなり遅れて、クリスが起きてきた。僕は日の出に間に合わないかと思って焦り気味だったが、クリスは急ぐ気配もない。ともかく、まだ暗い中、彼のスクーターの後ろに乗って、リトル・アダムス・ピークへ向かった。ヘルメットが一つしかなかったので、運転するクリスがかぶるのかと思ったら、僕にかぶれというので、ありがたく被らせてもらった。
駅とは反対方向、山の方へ走り、結構急な坂道を登って、10分かそこらで目的地近くに到着。スクーターを停めて少し歩いて登ったところが頂上だ。その途中、スリランカのアヌラーダープラで一緒に写真を撮ったスペイン人女性グループと偶然の再会。同じ国を巡っているとは言え、すごい偶然にお互いびっくり。
すぐに見晴らしのいい頂上に着いた。ちょうど太陽が山から顔を出すところで、壮大な風景と朝の清々しい光が気持ちよかった。山頂付近を歩き回ると、ド派手な仏像が目についた。日本だともっと厳粛な雰囲気を醸し出すと思うが、仏教に対する感覚もスリランカではかなり違うみたいだ。
頂上ではもうひとつ出会いがあった。スクーターで上がってくる途中、モンゴロイド系の若い女の子が一人で歩いていて、なんとなく日本人っぽいなと思っていた。その子が頂上にやってきたので、声をかけてみたら、やっぱり日本人だったのだ。日中韓のどの国の人かは、一見わかりにくいけれど、その佇まいでなんとなくわかることがある。特徴を適切に表現するのは難しいが、例えば謙虚で可愛らしげな佇まいなら、たいてい日本人だ。
旅に出て2週間ほど、日本人と話をしたのはこれが初めてだったので、なんだか嬉しかった。と同時に、まだ二十歳そこそこといった感じの頼りなげな女子が、一人でこんな辺鄙なところを歩いていることにびっくりした。日本にいると、”女性が海外で無防備に一人歩きするのは危険”という情報ばかり入ってきていた。けれど彼女は、特に警戒している風もなくて、その”おそれを手放している”感に感心してしまった。もっともその後の旅で、そういう一人旅女子が意外と多いこと、そして日本での情報が「危険だぞ」という方向に偏りすぎていることを知るのだが。
スクーターでナイン・アーチズ・ブリッジを見に行く
彼女は僕なんかよりずっと英語が達者で、すぐにクリスとも仲良くなった。クリスは、ご機嫌で「じゃあ、3人でnine archs bridgeを見に行こうぜ」と言い出した。僕はそこがどんなところで、どこにあるのかも知らなかったが、どんなところでもいいから、とにかく行ってみたくなった。情報があるものを見に行くより、よくわからないものを見に行く方がずっと面白い。
ヘルメットは彼女に被ってもらい、3人でスクーターに乗って、ナイン・アーチズ・ブリッジへ向かった。誰も行ったことがなかったので、クリスがスマホの地図アプリを見ながら行った。地図アプリはMaps.meというもので、便利そうだったので、僕も後でダウンロードして使い始め、その後の旅ではもっぱらこれにお世話になった。それにしても、スマホの地図アプリほど旅でお世話になったものはない。道案内、交通案内、観光スポット、宿、飲食店など、ほとんどの必要な情報はここから見つけられる。Wi-Fiのあるところで必要なエリアの地図をダウンロードしておけば、どこでもすぐに使えるのも助かる。とにかく便利だった。
とはいえ、あまりに辺鄙なところでは限界もある。ナイン・アーチズ・ブリッジへ降りる道がなかなか見つからなかった。結局、あちこちで地元の人に尋ねまくり、3人で相談しながらうろうろして、なんとかようやく見つけることができた。見つけてわかったが、そこは地図に出てくるような道ではなくて、獣道に毛が生えた程度、”使われていない登山道”といった感じのものだった。地元の人に聞かなきゃ絶対にわからなかったと思う。それも、人によってバラバラなことを言うので、自分達でも考えないと辿り着けなかった。考えると言っても、大した材料はないから、勘に頼らざるを得ない。しかも3人の勘が最初から合致するわけでもないので、相談しながら、いくつかの選択肢を試してみて、ようやく辿り着けた。
3人で草むらをかき分けながら進み、急な坂を下って、線路に出た。線路の上を少し歩くと、その先に鉄道が通るための大きな石造りの橋があった。橋には九つのアーチがあった。だからナイン・アーチズ・ブリッジと呼ばれているのだということに、遅ればせながら気づいた。しばらくそこを眺めたり、写真を撮りあったりして、その場を味わった。なかなかいい景色だった。いい景色ではあったが、景色自体にものすごく感動したかというと、それほどではない。それよりも、そこへ行ってみようと思いついて即行動し、試行錯誤しながらやっと辿り着いたプロセス全体、それはひとつの冒険と言ってもいいと思うのだが、それ全体が面白かった。
まだ朝食前だというのに、旅慣れたクリスと行動を共にすることで、旅のエッセンスのいくつかを体感させてもらった。
人間関係を勝手に拗らせる心の癖
ここからは内面的な話。旅先では、自分の心の動きがよく見える。僕はクリスと一緒に行動するとなった途端に自由の制約を意識した。伸び伸びした自己表現が息を潜め、相手に合わせなければという条件反射的な反応が出てきた。例えば「もしかしたら彼は朝ゆっくり寝ていたいかもしれない。英語がうまく通じない相手と一緒にいても楽しくないかもしれない」などとネガティブなことを考えてしまったり。さらには、「そういう風に思われながら過ごすのは自分にとっても面白くない。人といると自分が行きたいところへ行けない。人の計画に乗っかるとペースに巻き込まれる。せっかくお世話になってもそれに見合ったお返しができず、恨まれるかもしれない」などという不安が出てきたり。これは過去のネガティブ体験のフラッシュバックなんだけどね。
今はそういうそういう反応が出てもすぐに違和感に気づけて、修正できることが多いけれど、かつては翻弄されていた。とにかく一緒にいる人が不愉快になることがとても怖かった。またそれゆえ、一緒にいる人が喜んでくれていると思うと逆に安心しすぎて気を使わず、無礼な感じになったり、一緒にいる人が楽しんでいないと思うとどうしていいかわからず心を閉ざして逃避したり、ときにはなんとかしようと相手に媚びたりすることもあった。そしてこちらが変に気を使うと相手も居心地が悪くなる。あるいはこちらが気を使わなきゃいけないのが当たり前の関係性に陥ってそのうち不満を抱いたり、抱かれたり。関係性が近いほどそういう悪循環にハマっていた。そうやって勝手に人間関係を拗らせていた。それがとても客観的にクリアに見えるのが、旅の日々だった。
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