前回に引き続き、夏の特集として、撮影で訪れた熊野での心に残る体験を、ご紹介します
今回は、熊野市の集落ごとに行われるお盆の行事のうち、初盆の精霊をそのお宅からお墓に送り届ける「灯とぼし」についてです
心を込めて行われる昔ながらの伝統行事の中に、生と死を包括した世界観を生きる熊野の歴史を垣間見た気がしました
なお、前回は、熊野のディープな聖地をご紹介しましたので、まだご覧になっていない方はこちらをどうぞ
火とぼしの準備。美しい熊野の田園風景の中で
今回訪問したのは、熊野市育成町尾川地区でした
前の記事でご紹介した大森神社や尾川川の近くにあるこの地区は、青々とした山並みと田園風景に囲まれたとても美しい場所でした
家々を囲う古い石の塀がとても立派なのも印象的でした
強風から家を守るためだというお話でしたが、それにしても、どうしてこんな頑強な石塀を作るようになったのでしょうか
地区の住民たちは、夕方の明るいうちに、初盆のお宅からそのお墓までの道に、1〜2メートルおきくらいの間隔で、細い竹の先にロウソクを取り付けた棒を立てていきます
事前に聞いたところでは、立てる棒の数は108本というお話もありましたが、この地区では数にはこだわらず、距離に応じた本数を立てるそうでした
今年は、お墓まで同じルートを通る初盆の方が3名ほどいらしたので、竹の棒に巻くテープの色でどの方のロウソクかを区別していました
お墓は、見晴らしの良い高台にありました
青々とした山に囲まれ、きれいに掃き清められているためか、お墓なのに明るい感じがしました
空き家となっているお宅の塀の上に登らせていただくと、思いがけず美しい田園風景が広がっていました
熊野は山深い場所という印象でしたが、人の住むエリアには意外と広い平地があり、その広がりが、僕の心をのびやかにさせてくれました
ほどなく夕暮れ時が近づいてきました
空が広いということは、それだけで1日を豊かにしてくれます
空の青さ、雲の面白さ、そして、朝日と夕日の美しさを見せてくれるから
総出で蝋燭に火を点し、日暮れとともに光の道が現れる
日が沈んだ頃から、集落の方々が道に出てきて、各々がライターを手にして、ロウソクに火を灯しながら、初盆のお宅の前から近くの墓地へと向かって歩いて行きました
気心が知れた仲の人々に見られる、独特の和やかさや穏やかさとともに、ゆったりそぞろ歩きするような雰囲気でお墓に向かって行きます
ただ小さなロウソクに火を灯すという行為が、必然的に気持ちを集中させ、心を内側に向けさせ、慈しみと優しい気持ちを呼び起こしているように感じられました
そして亡くなった方のことは、おそらく集まった誰もがよく知っているのでしょう。その方を想い、心のどこかで、時の流れ、季節の巡りを想い、年に一度のお盆のひと時を味わっているような、そんな感覚が感じられました
死者と向き合い、死と生の間にある時空間
こういった味わいを感じる機会が、現代の都会の生活には不足している。というより、常に「死」を忘れたうわべの生活に追われているような気がしました
「うまく生きる」ことにばかり目が向き、「ただ生きる」ことの味わい、「生きて死ぬ」ことの味わいを忘れている、という言い方もできるかも知れません
やがてあたりが暗くなり、空に星が輝き出しました
ロウソクの灯りが道を作り、死者の御霊を送ります
ここにも街灯はありますが、あまり目立たない気がします
ロウソクの火と星の明かりが、この世界を静かに照らしています
思えば都会の夜は明るすぎて、ロウソクの灯りなど目に入らないでしょう
少しでも目立とうとする広告の照明は欲望を刺激するだけですが、ほのかなロウソクの灯りは美しさと温もりを与えてくれます
静かな夕闇の中、そぞろ歩く人々の足音や、囁き声が聞こえてきます
風の香り、土の匂い、空気の美味しさを感じることができるのは、本当はとても自然なことなのだと、思い出します
安心して感覚を開くことができるから、ごく当たり前のように死者の御霊を感じることもできるのでしょう
都会に溢れる過剰な光・音・匂いは、一種の暴力と言ってもいいかも知れません
その中では、人は感覚を閉さざるを得ないから、本当の自分を見失い、深い味わいが失われがちになるのでしょう
夜の墓地は不気味なところという印象がありますが、たくさんのロウソクが灯されているためか、集まった人々の心の穏やかさと静謐さを反映しているためか、不思議と何の恐怖も感じませんでした
谷を挟んだ向こう側の斜面でもこちら側と同じようにロウソクが灯されているのが見えます
本当に、この地域のそこかしこに御霊が漂っているような気がしました
それは、いわゆる悪霊ではなくて、生きている人とさほど変わらない心を持った仲間のような存在、そんな感じがしました
御霊を送り届けた人々には、なすべきことをした安堵、あるいは満足のような表情が見て取れました
死を命の一部として受け入れ、丁寧に扱うことには、生を豊かにする何かがあるように感じます
おわりに
「火とぼし」の行事は、特に型式ばった手順や儀式めいた作法があるわけではありませんでした
しかし、どんな偉い宗教家が行う、どんな大がかりな儀式よりも、初盆のお宅からお墓まで、たくさんのロウソクに皆で火を灯して歩いていくときのナチュラルな想いこそが、亡くなった方の御霊を本当に慰める力を持っているように感じられました
このような行事は、日本中、あるいは世界中、どこにでも見られることなのかも知れず、たまたま今、熊野を訪れたから、熊野の良さとして感じているだけという部分はあるかも知れません
しかし、この地には、やはり特別な何かがあるように感じるのです
それが何なのかはわかりませんが、遠い昔、もしかしたら原始時代にこの地に生まれた自然崇拝の本質とつながる何かが、その後の歴史の積み重なりの中で、消えずに残っているような気がします
熊野の土地に身を置き、実際に熊野に惹かれてみて、その魅力が少しずつ感じられるようになってきました
でも、まだまだ底しれない深みがありそうで、とても興味が湧きます
コメント