僕はネパールを旅している時、ヒマラヤのトレッキングルートの奥で頭にけっこうな怪我をしました
恥ずかしいなと感じる部分もありますが、その顛末をお話ししていきます
詳しく話すと長い話なので、何回かに分け、その都度、その体験で感じたことを記していこうと思います
今回は、怪我をした原因である、野犬に襲われたときのことです
そのようなときのことをあらかじめ考えていなかったので、大変な思いをしました
狂犬病、そして死の恐怖に負けてパニックに陥った瞬間
11月の午後遅く、ネパールのアンナプルナサーキットの奥地、ヒンズー教とチベット仏教の聖地ムクティナートの奥にある山道を一人で歩いていました
ヒンズー寺院のさらに奥にあるチベット寺院から、展望所をいくつか経て集落に至る30分もかからないくらいの山道で、植物はわずかしか生えておらず、荒涼とした岩と砂利の道でした
その日の早い時間帯にも一度歩いていましたが、とても眺めがよく、気持ちの良い山道だったので、もう一度行きたくなったのです
標高約3800メートルと富士山より高く、夜は水が凍るくらい冷え込む季節でした
もともと歩く人の少ない道ですが、夕暮れが近づいていたので僕以外には誰もいませんでした
途中、チベット仏教伝統のタルチョと呼ばれる五色の旗が張り巡らされたエリアがしばらく続くのですが、そこは、特に空気が澄み渡っており、奥に小さな仏塔のようなものが立っていたので、僕は興味本位で道を外れて、奥の方へ行ってみました
しかし、少し進んだところで、なんとなく、「ここは入ってはいけない聖域だ」というざわつきを感じたので、急いで元の道に戻りました
そこから5分か10分ほど歩いた時、一匹の黒い大きな犬が後ろから突然現れ、激しく吠えかかってきたのです
本気で怒って狂ったように吠えていました
僕は世界中を旅する中で、野良犬にはたくさん会ってきましたが、みなぐったりと寝ていたり、人間に関心がなかったりで、危険を感じたことはなく、こんなふうに吠えられたのは初めてでした
しかも、この付近の野犬は狂犬病を持っていることがあると聞いていました
狂犬病の予防接種は受けていましたが、噛まれた後にもですぐに傷口を石鹸水で洗浄して、できるだけ早く(24時間以内に)ワクチンを注射しなければ発病の恐れがあると聞いていました
狂犬病は恐ろしい病気で、発病すると狂ったようになって、100パーセント死に至ると聞いていました
ヒマラヤの奥地で、近くにまともな病院などありそうになく、そんなすぐにワクチンを注射できるとは到底思えませんでした
僕は瞬間的に、「これはやばい。噛まれたら終わりだ」と感じて、追い払うために立ち向かおうとしました
すると、その野犬は、「みんな集まれ!ヤバイ人間がいるぞ。みんな集まれー!」と仲間を呼び集めるかのように遠吠えを始めました
「武器になるような物も持っていない。何匹も集まってきたらやられてしまう」
僕はその瞬間、一瞬で死の恐怖に襲われて、パニックに陥りました
あれが死の恐怖というものでした
逃げるか、闘うか、反射的に一瞬で選択したのだと思います
僕は怖くて逃げ出しました
結構急な石や岩だらけの斜面です
逃げるのは逆効果だし、逃げ切れるはずもないのに、おろかにも走って坂の下の方へ逃げ出しました
犬も走って追いかけてきました
足元を注意する余裕もありません
坂を転がるように走り出してすぐ、本当につまづいて転びました
でも坂を転がり落ちて回転した勢いでそのまま走り出した瞬間、バランスを崩して坂の下の方へ頭からダイブしました
その先に大きな岩が横たわっていました
完全に宙に浮いてダイブしていたので、岩を避けることもできず、手で頭をカバーする余裕もありませんでした
岩に頭からぶつかる直前、時間が一瞬ストップして、「あ、これは死ぬかも」と思いました
次の瞬間、ガツっという重く鈍い衝撃とともに頭頂部から岩に激突しました
痛みは感じず、ただ一瞬目の前が真っ暗になりました
大怪我をした時に特有の、「ああ、やっちゃった」という取り返しのつかないことをした感がありました
地面に倒れたまま、目を開け、周りが見えることと意識があること、生きていることを確認しました
なぜか、もうパニック状態は感じず、むしろ冷静になった感覚でした
上半身を起こしてみて、体が動くこと、両手が動くこと、足が動くことを順番に確認しました
どこも骨折していないようでした
一番心配な頭は、激痛もなく、直感ですが、「頭蓋骨は折れていない。脳もやられていない」と感じました
ただ、大量の血がドボドボと頭から流れ落ちてきました
まるでコップの水を頭の上から一気に注いだように、ドボドボドボっと顔に流れてきて、かけていたサングラスの視界を半分以上遮りました
触ってみると頭も顔も血だらけで、着ていたダウンジャケットもみるみるうちに血に染まりました
止血したいと思いましたが、下手に触って細菌に感染するのも嫌なので、流れるままにしておきました
昔テレビで放映されていたプロレスで、頭から大量の血が流れるのを見たことがあり、頭からは大量の血が流れるものだと分かっていましたが、「それって本当なんだ」と、変に感心しました
問題の野犬はなぜか襲ってこず、5メートルくらいの距離で止まって、まだ吠えていました
吠えてはいましたが、最初の時のような怒り狂ったような勢いはありませんでした
僕はすぐに立ち上がる力が出ず、座ったまま、犬に向かって言葉をかけました
「あっちへ行け!もう分かっただろ。ここから出ていくから。お前の縄張りを荒らす気はないから。本当にどこかへ行ってくれ!」
どこまで口に出して、どこまで思っただけだったか、よくわかりません
そして僕は、そこら辺に転がっている石を拾い上げ、犬に向かって投げつけるポーズをしました
なぜ最初にこれを思いつかなかったのだろうと思いました
何が響いたのかわかりませんが、犬は吠えるのをやめ、くるっと向きを変えて、僕がこれから行こうとしていた集落の方向へ歩き去っていきました
逃げるというより、「分かったよ」という感じで普通に歩き去っていったので、僕の気持ちが通じたような気がしました
僕は、数秒だったと思いますが、そこに座って気持ちを落ち着かせようとしました
生き延びるための頭だけが回転していた感じです
それから立ち上がってみて、どこも骨は折れていないこと、捻挫もしていないことを確認しました
「よし歩ける。まず近くのチベット寺院へ行ってみよう。助けてもらえるかも」と思い、元来た道を引き返しました
気になって何度か後ろを振り返りましたが、さっきの野犬の姿はどこにも見えませんでした
チベット寺院には人の気配がなく、声をかけても誰も出てきませんでした
僕は、「じゃあ、集落へ行って医者に見てもらおう。診療所みたいなものがあったような気がするから。それまでに人に会ったら助けを求めよう」と思い、元来た道を辿って、ヒンズー寺院の脇を通り、ヒンズー寺院と集落を結ぶ一般道まで降りました
そこまで来ると何人かの地元民が、仕事の片付けをしていました
巡礼者や観光客を馬に乗せて運ぶ仕事をしている人たちだったと思います
最初に考えたように助けを求めてもよかったはずですが、僕は、「助けを求めると言っても治療してもらえるわけでもないし、馬に乗るのもそれはそれで危なそうだし、歩いて集落まで行けそうだから、まあいいや」と思い、そのまま素通りして集落へ向かいました
怪我をした場所から30分くらいで、明るいうちに集落につくことができました
まだ暗くなっておらず、通りに若い男の人がいたので、「この辺に病院はありませんか。頭に怪我をしたんです」と言って、自分の頭を指差しました
その人は、顔中血だらけの僕をびっくりしたように見ていましたが、「あっちにあるよ」と教えてくれました
ちゃんと教えてくれたのか、結局自分の記憶を辿って診療所を見つけたのか、この辺は、もはや記憶が定かではありません
とにかく、それらしい古びた建物を見つけ、ドアの鍵は空いていたので、中に入って声をかけましたが、しんとしていて、全く人の気配がありませんでした
仕方なく通りに戻り、通りかかりの男性に、「そこの病院の医師はいないのか?」と尋ねました
その男は、「いつもいるわけじゃないんだ。5時か6時になったらやってくるんじゃないかな」と教えてくれました
確か、まだ1時間くらい時間がありました
それで僕は、泊まっている宿まで帰ることにしました
そこには、ここまで登ってくる途中で偶然知り合った日本人のおじいさんのまるさん(仮名。おじいさんと呼ぶのが不自然なくらい若々しい方です。)と、ガイドのネパール人男性カビール(仮名)がいたので、その人たちに助けてもらうしかないと思ったのです
(続く)
(教訓)死の恐怖の前では、なすすべもなく弱かった
ただ一言、「死の恐怖の前では弱かった」、というのが実感です
僕はそれまで、「人間、皆いつかは死ぬ。いつ死ぬかは分からない。明日死んでも悔いのないように生きよう」をモットーに生きてきて、「いつ死んでも後悔しない」と思っていました
そう思っているつもりでした
しかし、いざ目の前に死の恐怖がリアルに迫った時、僕は恐怖に負けてパニックに陥りました
後悔するとかしないとか、考える余裕もありませんでした
後から考えると、「逃げちゃうなんてかっこ悪いな。石ころがたくさん転がっていたのだから、それを武器に戦って、野犬を退散させることができたんじゃないかな」と思います
後で調べると、間合いをとって後退りし、棒を振り回したり、石を投げつけたりして相手を怯ませるのが効果的で、逆に、走って逃げると、犬は本能的に興奮して襲ってくるので、逃げるのは最悪だったようです
僕としては、パニックに陥ったときに、とっさに逃げたという自分の弱さに、正直なところがっかりしました
どんなときも、肝が据わった人間でありたいものです
一つヒントになるのは、怪我をした直後、状況はむしろ悪化していたのに、恐怖心は薄れ、冷静になり、野犬を追い払うことができたことです
野犬は、「やっつけた。目的を達した」と思って帰っていったのかもしれませんが、僕はまだそこにいたわけですし、石を投げつけようとしていたわけだから、また襲ってきてもおかしくなかったとも思うのです
しかし、野犬は襲って来ずに立ち去りました
それは、僕の心が冷静さを取り戻し、恐怖心からの反応ではなく、「縄張りを荒らすつもりはないから、立ち去ってくれ」という心の声をストレートに伝えたからではないかなと、思ったりしています
この経験を活かして、今度、死の恐怖が襲ってきたときには、パニックにならずに対応できるといいなと思います
それと、昔から、映画、ドラマ、漫画、アニメなどの様々な古い物語に出てくる旅人は、たいてい長い杖を持ち歩いているものですが、その理由がよくわかりました
長い棒は、人類の道具、そして武器の基本ですね
これからは、危険な場所へ行くときは、ストックや杖のようなものを持っていこうと思いました
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