僕はかつて、他人から認めてもらいたくて、他人の人生を生きていました
結論から言います
東日本大震災をきっかけに、死を意識し始めたところから、限りある命をどうやって使おうかということにも向き合い始め、自分の人生を取り戻す旅が始まりました
ただし、そこで始まった変容が、行動として表に出るまでになるには、4、5年の時間がかかりましたが
真我の旅の詩
かつての若い日々
他人が障害物にしか見えない満員電車に揺られて
緊張感でいっぱいの仕事に向かう
反対方向へ向かう電車に飛び乗り
郊外へ、田舎へ、自然の中へ
行ってしまえたらどんなにいいだろうと
夢見ていた
しかしやがて
自分をその環境に適合させ
感覚を麻痺させ
他の生き方の可能性を忘れ
何のために生きているのかよりも
次々とやってくる目の前の問題だけに心を奪われていた
2011年3月11日
あまりにも多くの
何の罪もない人々の命が
いとも簡単に失われていくのを目にして
胸の奥にある何かが扉を開けた
人は必ず死ぬ
いつどのように死ぬか誰にもわからない
今世この命は一度きり
ならば今この時
自分が本当に望む在り方を生きなければ
魂が望む経験を味あわなければ
この命に対して申し訳が立たない
死ぬ間際に
「いろいろあったけど、自分の人生を思いきり生き切ったな」
心からそう思って死んでいきたい
今この時
行きたいところへ行き
まだ見ぬ美しいものをこの目で見て
感動に心を震わせよう
会いたい人に会い
時間を忘れて時を過ごし
深く心を通わせよう
それが僕の
旅に出る原点
東日本大震災の衝撃から気付かされたこと
死を自分ごととして体感する
3.11のその日僕は、とある機関の会議室で会議中でした
激しい揺れが長い時間続き、普通の地震でないことはわかりましたが、その後映像で見るような、あのような物凄い地震と津波だったとは、その時はわかりませんでした
映像の力とは、人の心を釘付けにして、まさに津波の中に引き込んでしまうようなパワフルなものだということが、今になってよくわかります
津波に飲まれた街の中、ビルの上に残された人の姿から、その恐怖がこちらの心の中も覆い尽くす感覚
大勢の人々が、あの大津波の中に飲み込まれて、命を落としたという衝撃が、自分のことのように迫ってきました
人は必ず死ぬということは、もちろん頭ではわかっていましたが、あれほどまでに人の死を自分ごととして体感したのは初めてでした
しかも、何の原因や理由もなく、底引き網にかかったかのようにごっそりと一斉に大勢の人の命がごく短時間のうちに失われてしまったという、なんとも理不尽な、運命としかいいようのないことの成り行きに
「自分も、誰もが、いつ死んでもおかしくない。今日、明日にその時が来てもおかしくない」
という真理が、僕の体に染み込んだようでした
死を意識することほど、人の生を刺激することはありませんでした
死をタブー視したままでは生と向き合えない
今の社会、普段、死は身近ではありません
大抵は、病院のベッドの上で、医療行為の流れの中で死んでいきます
死について語ることも、一つのタブーのように扱われています
自然と、死を意識することも無くなってきているし、仮に意識しても、深く向き合うのではなく、恐ろしいこと、考えたくないもの、よくないこと、忌むべきものとして、どこか壁の向こう側に押し込めているようです
向き合ってしっかり見なくても、日常生活に支障はありませんし、むしろ、多忙な日常のなかでは、死に向き合う時間など無駄なものだとして排除されているようです
しかし、死は必ず訪れるもの。見ないようにしても間違いなくそこにあるものです
未知のもの、なんとなく怖いものは、向き合わないで、未知のままにしておくことによって、その恐怖感を人の心の中に膨らませ、余計に向き合うことから遠ざけます
本当は、向き合うことによって恐怖の正体を自分なりに見極めれば、得体の知れない恐怖感を乗り越えて、避けられない運命として、自分の生の一部として、心穏やかに受け入れることができるのに
それだけでなく、死があるからこそ、この有限な生を生きる意欲が、生きる喜びが湧いてくるのに
死は全ての恐怖の根源にあるもの
死の恐怖と向き合い、それを受け入れ、限りある生を十全に生き切ろうという力が湧いてきた時、その人の本当の人生が、自分の意思と、自分の足で歩く人生が始まるのですね
そこには、勇気、素直さ、愛、歓びといった、光に満ちた感覚がありました
と同時に、臆病、自己卑下、無関心、妬み、悲しみといった、拒絶していた闇の感覚を受け入れる作業が、少しずつ始まりました
光と闇は、ともに力を与え合って、この生を体験と感動に満ちたものに導いてくれることも、徐々に徐々にですが、わかってきました
始まりは、死・怖れと向き合うことから
死やネガティブなものを、必要以上に怖れて避けるのはやめてみることが大切でした
まずはその恐怖をしっかりと感じ、感じきったところで何が生まれるか、観察してみるところから始めたらいいのではないかと感じました
そこから、僕の生も動き出しました。一度にではなく、最初は本当に見えないくらい少しずつ、徐々にです
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