自分を苦しめているもの
すぐに自分を責めてしまう
すぐに自分なんて、と諦めて孤独に逃げ込んでしまう
そんな自分に苦しむことはありませんか?
僕は大いにありました
そして不必要に自分を苦しめていたのが、無意識に染み付いた心のクセでした
誰にでも多かれ少なかれあるものですが、それが強かったみたいです
それを緩和して幸福感と自己肯定感を育むには、一つ一つクセに気付いて、玉ねぎの薄皮を剥がすかのように一枚ずつ手放していく心のレッスンが必要でした
もちろん、今もそのプロセスの途中ですし、このプロセスは一生続くものだと思っています
とはいえ、意識的にレッスンをするようになってから、自分が徐々に変化し、自分の周りの世界もいつの間にか思いがけないほど変化していました
変化することそれ自体がたくさんの経験をもたらしてくれます
それだけでなく、心のクセに気づくことで自由が増していく感覚は、そのプロセス自体が幸せそのものであるようにすら感じています
そこで、この記事では、僕がどのように心のレッスンを実践してきたか、自分の経験の一例をお伝えします
あるある。すぐ自分を責めちゃうとか、やりがちだよ
日常のあらゆる経験がレッスンになる
美味しい野菜を食べた時の詩
美味しい野菜を食べた時 感謝する気持ちはどこに向きますか? 僕は真っ先に 大地のめぐみ 自然のめぐみ 地球、そして宇宙の神秘に向きました 野菜を作った人 運んだ人 販売した人のことは すぐには浮かびませんでした 美しい景色を見た時 感謝する気持ちはどこに向きますか? 僕は真っ先に 大自然の素晴らしさ 地球、そして宇宙の神秘に向きました 自分を産み育ててくれた人のことは すぐには浮かびませんでした おもえばいつも 宇宙や自然、動植物の 美しさや純粋さに憧れ 自分もその一部でいたいと感じていました 人が仕事としてしていること 人間の営み 人類が作ってきた文明 科学技術 社会システム そういったものに対しては 直接その熱い思いが響いてきて初めて 感動や価値を感じました 傷つきやすい 脆弱な自己評価の裏返し かもしれませんが なんだか 人のエゴ 欲望 プライド そういった人特有のものを 毛嫌いしていたようです 人類なんて この美しい大自然や地球にとっては ウイルスやガンみたいなものだと どこかで感じていたようです そんな人類の中にいることに いい知れない違和感を覚え 居場所のなさを感じていました そこに適合できない自分に絶望し 自分の中にもある闇を受け入れられず どこにも居場所のない 存在してはいけないもののように 自分を見ていました 人間として経験を重ね 旅を重ねて ようやく 自分の中の闇を受け入れ 善悪の評価から離れ 生きる喜びをトータルに感じるようになって 初めて他者の闇 そして人類の闇を 善悪の評価を離れて 色眼鏡なしに見られるようになったようです それでも 感謝の対象といった何気ないことの中に 自分の心のクセがあらわれるもの そしてそのついでに 自分の深いところにフォーカスしてみると この大自然や宇宙の純粋さこそが 自分がありのままでいられる場所で ずっとそこにいたいのだと 感じている自分がいるのに気づきます そんなときは コテコテと余計なものをくっつけまくった 人類の営みが 僕とは違った世界のもののように感じて 違和感を感じるのです ただ昔と違うのは そんな自分を反射的に否定するのではなく そういうところもまた自分の一部であったと 善悪の判断なしに受け入れる ゆとりがあることでしょう ただ気づくだけで得られる 別の視点から生まれる 心のゆとりが
すべての出発点は自分の心の動きを感じること
自分の心の動きに、ただ気づいていくこと
結局のところそれが全てと言っていいくらいでした
簡単なようで、最初は難しかったです
あまりにも思い込みが強くて、刺激に対してただ条件反射的に反応しているだけということがたくさんありました
豊かな感情や感覚を味わうどころではありませんでした
すぐに自分が否定されたように感じてしまう傾向があり、何か自分が否定されるように感じることがあると、恐怖や不安の真っ只中に飲み込まれてしまいました
そして、そこから逃げたり、戦ったり、、、痛みや傷を受けそうな何かを避けてばかりでした
それが変わったのは、いくつかのきっかけが重なり、自分を押し込めていた呪縛に気づき始めてからでした
ここでは、自分の心の動きを感じるとはどういうことなのかをお伝えしたいと思います
先ほどのポエムの例で言うと、友達と一緒に美味しい野菜を食べて、「ああ美味しいな。感謝だね!」と言ったときに、友達が、「うん。こんな野菜を育ててくれた農家の人、運んでくれた運転手の人、みんなありがとう。」と話したのです
これを聞いて、自分は、それよりも大地の恵とか、植物自体の生命に対して感謝を感じていたので、微かな違和感を感じました
表面上当たり障りのない会話を続けるだけならば、その話自体に異論があるわけでもないし、「そうだね。それに大地の恵、命の恵にも感謝だね」と話を続けて、違和感など意識する必要もないですよね
でも、違和感をちゃんと感じて、そこに意識を向けてみることこそが大切
違和感はレッスンのチャンスなのです
違和感を見ないフリをしてやり過ごすのではなく、「あれ、何を感じているのだろう」と立ち止まって観察してみるのです
観察というのは、ちょっと違う視点からでなければできません
違和感という自分の感覚を感じながら、何を感じているのだろうとそれを観察する高いところからの視点を持つのです
そうすることで、僕は、「自然に関する物事について、自然とか大いなる何かに対する畏敬の念や感謝の気持ちは真っ先に強く感じるけれども、人間の営みに対しては、そうではなかったな
何かブロックがある感じで、リアルな感謝の気持ちが湧いてくるには、そこを想像する努力やきっかけが必要みたいだったな」と感じました
頭で考えるというよりも、「ああ、そこはすっぽりぬけていたな。この人はそこをまず感じるのと違って、自分はすっかり忘れていたな。なんという大きな違いだろう。」と、まさにしみじみと感じました
そこから、自分の感じ方の特徴について、芋づる式にいろいろな感覚が湧いてきたのです
しかし、そこには落とし穴もありました
それがジャッジです
感覚を歪める元凶は良し悪しをジャッジする習性
違和感、違い。。。自分と他人との違いを感じたときに、ついついやりがちだったのが、「自分は間違っていた。自分には何かが欠けていた。自分はダメな人間だ。」という無意識の評価、ジャッジメントでした
無意識の反応として、何事に対しても良し悪しを評価していると、あるがままの自分の感覚を感じるいとまもなく、自己否定や罪悪感、あるいは逆に他者に対する攻撃や否定といった感情の渦に飲み込まれがちです
先ほどのケースでも、「携わった人間に対する感謝の気持ちが湧いてこない自分は欠陥人間だ。」というような自己否定的な評価を瞬間的に下し、その自己否定感にどっぷり浸かることで、気分は落ち込み、楽しさも消え失せてしまいます
逆に、それを避ける無意識の反応としての攻撃、つまり「相手がおかしいんだ。」という裏返しの思考を生み出してしまうこともあります
例えば、「まずはこの大自然に感謝すべきだろう。」「人間はどうせお金を稼ぐための仕事としてやっているだけじゃないか。」「農業のあり方にもいろいろ問題があるんだから、単純に感謝できる話じゃないのに、わかっていないのかな。」などと相手を攻撃するモードに入ってしまうわけです
ちなみに、ここでは深く立ち入りませんが、そのような攻撃の理屈にも様々な思い込みや心のクセが入り込んでいますね
こういう攻撃モードになると、自分の一方的な「正しさ」を押し付けようとするわけですから、相手も気分が良くなくて言い合いのようになってしまい、お互いハッピーではありません
世の中の争い事の多くも、悪気があるわけではなく、こういった「正しさ」のぶつけ合いによって発生しているような気がします
そうではなくて、できればノージャッジで、ただ違和感の中身を感じられればいいのですが、もし「正しい・間違っている」のジャッジが湧いてきたら、またそれを感じて、観察して、自分がどういうときにどんなジャッジをしがちなのかに気づいていくのです
そこでまた、自分の「こうあるべき」という思い込みに気づくことができます
気づくことによって、心が緩み、他の感じ方、他の価値観を理解したり、ときには受け入れたりして、心の自由度が広がっていくのです
ここにも落とし穴があるのですが、決して、自分を殺して他人に合わせるということではありません
むしろ、とことん自分の感覚を感じ、他人とは無関係に自分の感覚を受け入れていくことが全てで、その結果として、自分とは異なる他人を受け入れる心のゆとりも生まれてきました
こういった、自分の心の動きを観察する行為は、内観や瞑想の手法としても扱われているようですし、僕も自分なりに瞑想をするようになって、自分の心の動きを客観的に観察する力が育ってきました
しかし、この力も、頭で理解できたらからといって、いつでもすぐに発揮できるというものではありません
日々、このような些細なことを捉えて自分の心の動きに意識を向けようという意図を持ち、これを毎日何度も実践して、いわば心の筋肉を鍛えるレッスンを繰り返すことで、少しずつ鍛えられてきたのです
これって、忙しい日々の生活の中では、非常にめんどくさくて、正直やってられない感じですよね
僕も、もし毎日仕事に忙殺されている中では難しかったと思います
僕の場合、仕事をやめて自由な時間がたくさんんありましたし、最も効果的なレッスンとなったのが、世界一周の旅でした
ただあらゆる感覚を感じ、味わっていく、心のおもむくままに動き、体験して、毎日様々な感情と向き合っていく
旅の間、そればかりやっていた気がします
そして、その感覚を、リアルな旅ではない日常生活の中でも忘れずに感じ続けていたいというのが、「旅するように生きる」という僕の望みの意味であり
それが心のレッスン・トレーニングでもあるわけです
ちなみに、このような心のレッスンをするのには、ある友人の紹介で買い、旅に持参して読んだ「パスワーク」という本がとても役に立ちました
かなりスピリチュアルなものですが、紹介させていただきます
確かに、一人旅の中だと出来そうだね
でも日常生活では、いちいち考えてられないよって気もするな
まあね
でもそれをやっていかないと、地に足がつかない状態になったり、苦しい方向へ行ったりしがちだから
それだけ重症だったってことかもしれないね
コメント