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思い込みに気づく最高の方法〜旅で出会った非常識体験

旅人ライフ情報
この記事は約11分で読めます。

生きていく上で、自信のなさ、生きずらさ、息苦しさ、窮屈さなどを感じることはありませんか?

僕は大いにありました

そんな生きずらさとの格闘に、人生の多くのエネルギーを費やしていた気がします

そして、そこから自分を解放するプロセスに乗り始めた時、人生が大きく動きました

そのプロセスで避けては通れないものが、思い込みからの解放です

人間、生まれ育った環境や性格、人生経験などを通して、知らないうちに様々な思い込みが染み付いているものです

当然〜すべき」「言うまでもなく〜でなければならない」「もちろん〜が当たり前」などと考えていることの多くは、無意識の思い込みです

それはある限定された社会での生活を円滑にし、非常識な人間として排除されることから自分を守る防護壁になってくれることもあるでしょう

しかし、逆に自分を苦しめる呪縛になっていることもあるもの

特に、世の中や生き方の変化が激しい今の時代においては、むしろ呪縛的な働きをしている方が多いかもしれません

自由に自分軸で生きていくためには、まずは無意識の思い込みの存在に気付いていくことが一番です

その上で、どんな行動を選択するかは、自由に決めればいいのです

僕が世界一周の旅をする中で、良い悪いは別にして、自分の無意識の思い込みに気づかされる出来事がいくつもありました

この記事では、そんな印象に残る出来事の中の一つをご紹介します

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一番の旅友になった香港の事業家君について

世界一周の旅で最も長い期間、一緒に旅をした旅友は、香港からきた旅人のドンキー君(仮名)でした

ヨルダンのペトラ遺跡で出会い、ヨルダンの砂漠や海を一緒に遊び回り、いったん別れた後、エジプトのギザのピラミッドで合流し、また別れてカイロで合流し、その後、僕はヨーロッパへ向かい、ドンキーはいったん帰国しました

そして更に、僕が南米に滞在しているときに、ドンキーも南米の旅にやってきて、チリのサンチアゴで合流し、チリとアルゼンチンでパタゴニアの山やブエノスアイレスの街、イグアスの滝などを遊び回って別れました

彼は、以前から個人で商品輸入販売の事業をやっており、仕事で海外へ行くことも多いし、たまに、お店を人に任せて、数ヶ月間の旅を楽しむという生活をしていました

だからドンキーは僕よりもずっと旅慣れており、彼からいろんな旅のノウハウを学ぶことができました

ドンキーの年齢は僕より少し下ですが、まあおおむね同世代で、なんとなく波長が合っていたと思いますし、お互いに「圧」のようなものが強くなくて、相手の存在が邪魔にならないのもよかったのだと思います

とは言え、生まれ育った環境や生きてきた世界が大きく違うので、ドンキーの行動に驚くことや違和感を感じることが時々ありました

ドンキーは普段、冷静で物静かな男なのですが、何かトラブルがあったときには、強い意志と自立心のようなものが激しく立ち現れてきました

旅の非常識体験〜トレッキングポール紛失事件

思い込みに気づく①自分の落ち度なのに謝らないの!?

事件は、トレッキングの聖地、南米のパタゴニアへ行ったときのことでした

パタゴニアのチリ側にパイネ国立公園という場所があり、そこのWコースと呼ばれる3泊4日の有名なトレッキングルートがありました

僕とドンキーは、それに挑戦しようということになり、泊まっていた宿でリュックサックやトレッキングポールなどのトレッキングの道具やテントや寝袋などのキャンプ泊の道具一式をレンタルして、トレッキング に出かけました

実は、このトレッキングコースは完全予約制なのに、何一つ予約せずに突入したということ自体、僕の常識を超える行動であり、そのトレッキングのプロセスも驚きに満ちていたのですが、それは別の記事でお話しすることにして話を進めます

とにかく僕たちは、かなりの苦労をしてこのトレッキングルートを歩き切り、最終キャンプ地から帰ろうという段階になったときに、ドンキーが

トレッキングポールがない
さっきあそこのピクニックテーブルの上に置いたから、その後あの場所にいたグループの誰かが持って帰ってしまったのかもしれない」

と言い出したのです

そのグループの姿は見えず、探してもトレッキングポールは見つからなかったので、仕方なくそのまま宿に帰りました

僕の感覚では、宿に帰ったら真っ先にオーナーのところへ行き、トレッキングポールを失くしたことを伝えてお詫びを言い、相応の弁償をすることになると思っていました

ところが、ドンキーはそのような行動はまったく取らず、悠然としているのです

僕は自分のことではないので、それに対して口出しはしなかったのですが、内心では

「えー、謝らないの?それはちょっと非常識なんじゃない?
人としてどうなんだろう?」

という違和感でいっぱいで、落ち着きませんでした

うーん
違和感を持って当然だと思うけど。。。

確かに、今でも、その違和感がないわけではありませんし、日本人の常識からすれば、悪意はなかったとは言え、借りたものを失くしたのは管理不十分だったからで、そこに自分の落ち度はあるわけだから、謝ったり、何らかの弁償をするのは当たり前だと思うのが普通かもしれません

しかし、このような場合、自分の常識に反するものに対する拒絶反応に飲み込まれて、そこで思考停止してしまっては、思い込みへの気づきは生まれないですよね

善悪の判断をいったん脇に置いて、自分がどうしてそんなに違和感を感じるのか、自分は自動的な反応としてどんな価値判断をしているのか、といったことに目を向けてみることで、気づくことがあります

僕は、その時点では違和感に支配されていましたが、その後で少しずつ考えてみて

「僕には自分の落ち度を過大に評価するところがあったな」
「まず自分から謝ることで、相手のご機嫌を取ろうとする傾向があったな」
「それは、怒られたり非難されたりすることを極度に嫌う自己防衛反応の一つに過ぎないな」
「いい人、正しい人でなければならないという思い込みの奥には、そうでなければ存在してはいけないという自己否定の根深い思い込みがあったな」
「自己否定は乗り越えたつもりだったけど、反応の奥に潜んでいることがあるんだな」
「だから最初から自分の都合は後回しにして、相手の都合を優先していたんだな」

といったことを感じました

奥深いところにある自己否定からの反応に気づいたんだねー

でも、そういう自分を否定するのも自己否定かな?こんがらがってきた

自分の反応が、思い込みに基づくものだからと言って、それを全否定する必要はないですよね

そこには日本人の美徳もあるわけですし、自分の良さ、個性もあるわけですから

ただ、無意識の条件反射として反応していたと意識できることで、そこに選択の自由が生まれ、選択の可能性が広がるなと感じるのです

なるほど、「無意識の反応に気づくことで、選択の自由、選択の可能性が広がる」のは確かだね

思い込みに気づく②弁償方法も自分のペースで決めちゃうんだ!?

話をパタゴニアに戻します

その後、ドンキーは、オーナーから、「ポールが一本ないけどどうしたの?」と聞かれて、「どこかで誰かに持っていかれたらしい」と答え、オーナーから「じゃあ、弁償金として2万ペソ(日本円で2600円くらい)を払ってね」と言われました

しかし、ドンキーは、「それはちょっと高いね。もっと安いポールが売っていたから、それを買ってくるよ」と言って、支払いを拒み、ポールを買いに出かけてしまいました

その後、オーナーは、宿に残っっていた僕に対して、「代わりの安いポールじゃダメだよ。失くしたポールはブランド品の結構高いやつだったんだから」と言ってきました

僕は、2本1組で残っていたポールを見せてもらい、ネットで検索して確認しましたが、確かにブランド品で、かなり高いものだったので、中古品とは言え、2万ペソぐらい払わされるのは仕方がないのではないかと思いました

それで、ドンキーに電話して、そのことを伝えましたが、彼は「2万ペソは高すぎる」と言って聞き入れませんでした

そして、いくらか忘れましたが、安いポールを1本買ってきて、オーナーにかけあったのです

僕はその場にはいませんでしたが、部屋に帰ってきたドンキーは
「オーナーから、『こんな中国製の物じゃダメだ』と言われたよ。彼は考え方が古いね。中国製が粗悪品というのは昔のことなのに
いいさ、明日もう一度これを渡して、もしダメだと言われたら、宿代を払わないで出ていこう
と言うのです

僕は、「ドンキーは香港人だから、中国製を馬鹿にされたことに対してもむかついたのかな」と感じましたが、それにしても宿代を払わないで出ていくという発想にびっくりしてしまいました

それで、僕は、「やっぱり、失くしたんだからお金で弁償した方がいいんじゃないかな。2本1組なのに種類の違うポールを渡されても、オーナーは困ると思うよ」と言いましたが、ドンキーは、「そんなにオーナーに気を使う必要なんてないだろう」と言わんばかりの表情で、「俺は払わないよ」と言い切り、話を打ち切ってしまいました

僕は、それ以上何も言えず、「困ったなー」と思いながら、翌日の成り行きをみることにしました

そして、翌日、ドンキーが一人でオーナーと話してきて、部屋に戻ってくるなり、「ポールではダメだったけど、1万ペソでいいと言うから、払ってきた
一人だったら払わないけど、君をこれ以上困惑させたくないから払ったよ」
と言いました

結局、半額に値切った形ですが、最初からドンキーがそれを視野に入れていたのかどうかはわかりません

それにしても、僕は、複雑な気持ちでした

ドンキーのやり方に違和感を覚えていたのは確かですが、その反面、彼のしたたかさ、たくましさに比べて、自分はなんて臆病なんだろうと感じていました

僕が困惑しているのを見て、ドンキーが仕方なく妥協したというところも、自分がドンキーの味方になりきれなかったという罪悪感のようなものを刺激しました

ドンキー、なかなかしたたかだね

面倒なことを避けるより、自分の主張を貫く方を優先させているんだね

ここでも、ドンキーの行動に対する善悪の評価は脇に置いて、自分の心の反応から、そこに隠れた思い込みに気づくという作業をしました

そこで感じたのは

「自分の場合、まず罪悪感から出発して、罪悪感を埋め合わせるための行動を取ろうとしているみたいだ」
「自分は、ドンキーがやったみたいに対等な当事者として他人と対峙するのを怖がっているみたいだな」
「やっぱり非難されるのを避けようとばかりしているな」
「オーナーから無礼な奴と思われるのも嫌だし、ドンキーから臆病者と思われるのも嫌なんだな」
「オーナー軸とドンキー軸の間に挟まれて困惑していたけど、そこに自分軸はどれだけあったのだろう」
「誰もが不満をもたないよう、平和に、穏便に、円満にことを収めなければならないと思い込んでいるみたいだな」
「人のネガティブな感情を怖れているみたいだな」
「やはり、根底には、自己の存在否定という深い思い込みがあるみたいだな」
「そこから派生していろんな思い込みがあるな」
「ルールはいつでも守らなければならないとか、人には必ず誠実でなければならないとか、絶対に他人に迷惑をかけてはいけないとか、人を不愉快にさせては絶対にいけないとか。。。」
「僕はとにかく非難されたり否定されたりするのを避けようとして、最初から相手の都合を優先させていたんだな」

といったことでした

結構シビアな自己分析だね

自虐的にも見えるけど。。。

確かに、自分の根底に自己否定があることを掘り出す時点では、やはり残念な思いや、悲しい気持ちが湧いてきて、自虐的な感じも受けます

しかし大切なのは、「だから自分はダメなんだ」という自虐の世界に浸るのではなく、「これは不合理な思い込みに過ぎないんだよな」ということに気づき、「その思い込みから連鎖する反応も、手放していいものなんだな。本来の自分は、もっとのびのびと生きられるんだな」と肩の力を抜くことです

思い込みに気づくプロセスとその後のプロセス

おそらく、どんな経験も、意識の向け方によって思い込みに気づくきっかけになるはずです

しかし、日常のルーティンをこなしているときに、いちいちその作業をし続けるのは容易ではありませんよね

僕が実際に体験したのは、ドンキーという異質な存在と一緒に、旅という非日常を体験して、驚きや違和感の強い刺激を感じられたことです

つまり、旅すること、そこで出会う異国の土地、異国の人、異文化、異習慣が、僕の心を揺さぶり、思い込みを炙り出してくれたのです

ドンキーは、個人で荒波を乗り越えてきた商売人ですから、駆け引きには慣れていたのでしょう

また、ドンキーは、香港という特殊な地域で生まれ育ち、国家や社会制度に依存しない在り方をしているように感じました

そんな、異質な存在に対する、善悪の判断や拒絶反応に飲み込まれて終わるのではなく、それをいったん脇に置いて、自分の思い込みにフォーカスすることが重要でした

この作業を、レッスンないしトレーニングのように繰り返すことで、気付きの筋力が鍛えられ、旅をしていなくても、違和感から思い込みに気づくことが意識的にできるようになってきました

思い込みに気づくことにより、条件反射的な選択ではなく、意識的な選択が可能となり、自由が広がりました

自由が広がることで、様々な経験を素直な気持ちで受け入れられるようになり、人生の経験を深く豊かに味わう気持ちのゆとりが生まれてきました

そして、その先には、僕にとって「生まれてきてよかった。生きていてよかった」という実感、すなわち自己肯定感幸福感がありました

もちろん、今もそのプロセスの途中ですが、そのプロセス自体が喜びでもあり、生きることでもあると感じています

結局、旅は素晴らしいっていうことになるね(笑)

まとめ

思い込みに気づく最高の方法の一つは、自分と異なる常識で動く人と一緒に行動し、自分の驚きや違和感を感じたら、その奥にある「当然〜でなければならない」という無意識の考え方を発見していくことです

そのためには、善悪の判断や、自分と異なる考え方に対する拒絶反応に飲み込まれず、その反応をも客観的に観察する視点を持つよう、意識していることが重要です

そういった体験や意識の持ち方を実践するのに最高のトレーニングの場が、日常のルーティンを離れ、旅で訪れる異国の地、旅で出会う異国の人です

自由に旅をすることで思い込みに気づき、それによって内面が自由になり、内側から自由になることによって本来の軽やかで喜びに満ちた自分を取り戻していくんだな、というのが僕の実感です